カナンの偵察

 民数記  Comments Off
Apr 292013
 

出エジプトしたイスラエルの民約300万人が約束の地であるカナンへと向かっていました。今日の本文で彼らが宿営していたカデシュ・バルネアという土地は、カナンの地からさほど遠くはなく、その土地を偵察できるまで近くに来ていました。しかし、残念ながらイスラエルの民は約束の地に入る事ができずに、この荒野を約40年間さまよい歩くことになってしまいます。なぜ、そのような事になってしまったのか。その理由は民数記の13章、14章を読むことによって分かります。エジプトを脱出したイスラエルの民は神から選ばれた約束の民、救われた民でした。彼らは唯一の主なる神を信じていました。しかし、それでも彼らは主が約束された乳と蜜の流れる土地、豊かなカナンの土地に入ることができなかったのです。彼らはエジプトの奴隷状態からは解放されたけれども、主が与えようとしておられる本当に豊かな報いと実りを得ることはできませんでした。彼らは今の時代、この世と言う荒野を生きるクリスチャンである私達をよく表しています。

10:10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

とあります。私たちは救われたからには、豊かな実りと勝利ある人生を歩むべきです。しかし、なぜそれができないのか。私達は今日の本文を見ながら考えて行きます。

13:25四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た。13:26パランの荒れ野のカデシュにいるモーセ、アロンおよびイスラエルの人々の共同体全体のもとに来ると、彼らと共同体全体に報告をし、その土地の果物を見せた。13:27彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。13:28しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。

彼らは約束の地を見てきました。その12人はイスラエル12部族の各代表者であります。リーダーとして相応しい信仰・人格を備えているべき人でした。しかし、彼らの12人の報告の中で10人の報告は否定的のものだったのです。また、続けて彼らは言います。

13:33そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。

根本的な彼らの信仰の姿勢があります。自分達がいなごのように見えたと言っています。彼らのアイデンティティーは『いなごのアイデンティティー』でした。自分達が小さな存在である。みじめな存在である。自分達は無力で、何もできない弱い存在である。これが彼らの価値観だったのです。私たちはどのような考えをもって生きているか、考えてみましょう。勿論、私たちは罪深い人間であります。主の前に喜ばれることが何一つできない、そのような存在です。しかし、私たちはイエス・キリストの十字架の血潮により、清められ、赦された存在であります。クリスチャンになると、自らの罪深さで悩むこと、葛藤が勿論あります。だからこそ、私達は主の十字架のみを誇りとして歩まなければなりません。

6:14しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

私達は十字架によって贖われ、神の子供となりました。尊い神の子であります。その事を信じていますか?彼らはそのような意識がありませんでした。彼らは奴隷根性から抜け出すことができなかったのです。400年の間、彼らは奴隷でした。奴隷とは何ですか?常に言われて行動する、言われるまで行動しない。主体性、積極性のなさ。周囲の状況を見ながら、人間に縛られながら生きること。またエジプト人を見ながら、彼らの技術、文明に圧倒されていたように、世の中を見ながら、世の文化、文明や技術に圧倒されて委縮してしまうこと。これが奴隷根性です。彼らはエジプトは脱出しながら、奴隷の状態からは解放されました。しかし、奴隷根性が抜けきらなかったのです。

私達を考えてみましょう。私達はどのように生きるべきであるのか。先週まで、宮城県における災害のボランティアに行ってきました。各ヨハン教会から日本部、韓国部、中国部が集まり、塩釜と石巻を中心にして活動しました。がれきや泥の撤去と非難所での炊き出しがその主な仕事です。個人個人ではなかなかこのような働きをしても力が足りないことが多いです。しかし、神の共同体として、教会として、私達は力を合わせて大きな働きをすることができます。今、まさに救われたイスラエルの民は、教会という神の共同体そのものです。私達が起きて、光を放たなければなりません。このような国家的な危機の状況に際して、私たち日本人部はどれほど主体性があるでしょうか?韓国や中国に帰る留学生達が次々といる中で、自ら最も被害の大きい場所である被災地に行って活動する留学生達がいます。

クリスチャン精神は何でしょうか?困難から逃げずに、一番難しい場所に自ら飛び込んでいいくのがクリスチャン精神であります。私達は確かに弱い罪人です。しかし、主の十字架により、聖霊様の力により日々強められて歩む者です。また、私たちは神の共同体である教会の体として一つになる時に、大きな力を発揮することができます。

私達はある意味、日本における先駆者として、開拓者として用いられています。彼らリーダー達は、他のイスラエルの人々よりももっと先を見る事ができる偵察隊でした。彼らはその目で約束の地を見たのです。彼らはその乳と蜜の流れる土地を見ながら、期待感に溢れるべきでした。喜びに溢れるはずなのに、彼らは約束の地を見て絶望したのです。

私達はどうでしょうか?クリスチャンには約束の地があります。それは天国です。神の国です。私達は主の素晴らしい約束の地に向かって歩んでいます。私達は実際に物理的に目で天国を見る事ができないです。しかし、私達は聖書を通して、信仰を通して約束の地である神の国を見る事ができます。そこに期待感や喜びがないのならば、どうして世の中の人々はクリスチャンに魅力を感じるでしょうか?私達は主の素晴らしい天国の約束を期待して歩む者になりましょう。救いは信じる全ての者に平等に与えられます。しかし、天国の報いは、それを慕い求め、探し、門を叩く者に与えられます。積極性、主体性が必要なんです。愛する中高等部(2時礼拝)の兄弟姉妹はどうでしょうか?言われてやる人々でしょうか?受け身で、消極的に歩んでいるならば、私達は奴隷根性から抜け切れていないのです。

神の子としての尊いアイデンティティーを持って歩みましょう。

 

2番目に、彼らは何にもまして不信仰でした。

13:32イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。13:33そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。

32節、33節を見てみれば、『見た、見えた』という言葉が4回も出てきます。彼らは約束の地を見て来たのです。しかし、どのように見るのか、信仰の視点が大切なのです。彼らは40日間、カナンの地を見てきましたが、そこで見た者はそこに入ろうとする人々を返り打ちにし、滅ぼすであろう強い民族、巨人のようなアナク人、城壁や様々な精錬された武器の数々でした。確かに、当時の異邦人であるカナン民族は武力的に力強い民族でした。かたやイスラエルの民は戦車があるわけではない、武器があるわけではない。又定住する土地も要塞も城も持たない、遊牧民族です。彼らの力の差は歴然としているように見えます。彼らは約束の地を見ながら、40日の間、目撃した現実に打ちひしがれました。

ここに、私達が気をつけなければならないものがあります。それは『現実』というものが私達をどれほど絶望させ、落胆させる力を持っているかということです。確かに現実から逃げるのは良くないです。私達は現実を直視するべきです。しかし、現実と言うのは、見るものを圧倒する力をもっています。見た眼を通して、聞いた耳を通して、私達の考えを変え、心を動揺させ、恐れと不安に捕らわれる力を持っています。そして恐れに捕らわれた心は、現実を客観的に見る事ができなくなります。そこから信仰は全て失われます。

最近の震災のニュースを見てみれば、分かります。物理的な被害も大きいのは勿論ですが、東京や北関東においては、心理的な被害がよく見られるんです。風評被害と言うのがあります。厳しい現実を見ながら、人々は客観性を失い、恐れや不安に捕らわれて『悪い情報』を流し始めます。本文にもあります。『偵察してきた土地に悪い情報を流した』とあります。原発の問題がそうです。東京の水?大人は普通に飲んで大丈夫です。放射能汚染がありますか?飛行機に乗って韓国や中国に帰る方がもっと被ばくします。東京ではたばこの喫煙所の近くにいた方がもっと健康被害は大きいです。しかし、人々は悪い情報に翻弄されて、パニックに陥る傾向があります。今の時代も、この民数記の時代も同じです。

私達は現実に圧倒されてはなりません。2種類のクリスチャンがいます。現実の上に信仰を置く人と、信仰の上に現実を置く人です。信仰の上に現実を置く人は、どんなに礼拝で恵まれても、どんなに聖書勉強で恵まれて教会でハレルヤアーメンと言っていても、一歩教会の外に出て、現実の世界を見ると絶望し、落胆します。つまり不信仰です。信仰生活は教会にいる時だけがかろうじてできます。

しかし、現実の上に信仰を置く人はそうではありません。周りの状況や環境は苦しい、確かに問題だらけ、絶望、落胆したくなります。しかし、現実の上に信仰があるので、主の御言葉の約束があるので、落胆しません。否定的な現実を乗り越えて、聖書の御言葉を通して希望を見出し、喜びます。現実を見ながらも、信仰をもって感謝を捧げます。クリスチャンはどのような存在でしょうか?

ガラテヤ 3:11律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。

そうです。正しい者は信仰によって行きます。信仰で生きる私達になりましょう。現実を見ながら、現実に圧倒されて、恐れおののく者ではなく、信仰で前を向いて進む者になりましょう。

 

3つ目に、私達はその信仰の素晴らしい態度をヨシュアとカレブを通して見る事ができます。

13:30カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」

ヨシュアとカレブの二人は、信仰をもって進み、その約束の地を占領する事を願い出ました。それが神の御心だからです。それが神の約束だからです。今、私達が生きる日本はどうでしょうか?確かに難しい状況にあります。震災の被害で人々は苦しんでいます。しかし、あらゆる状況に際して、日本の民が救われる事は主の御心であると信じます。主はアブラハムに約束されました。

創世記 18:26主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」

創世記 18:32アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」

正しい者が10人いれば、主はソドムの街を滅ぼさないと言われました。正しい者はどんな者でしょうか?優れた頭脳の持ち主でしょうか?リーダーシップのある人でしょうか?違います。正しい者は信仰ある者です。主は信仰者を通して、その町を、民族を救いへと導かれると信じます。日本は今、大変厳しい状況にあります。しかし、私たちクリスチャンが信仰に固く立ち、起きて光を放つならば、私達を通して日本が変わることを信じましょう。確かに12人の偵察隊の内、10人の不信仰により、イスラエルの民は40年の放浪生活を余儀なくされました。しかし、逆に言えば、12人のうちの2人のヨシュアとカレブの信仰を通して、イスラエルの民は完全な滅亡からは免れました。そして、彼ら二人とその子供の世代は約束の地に入り、見事に約束の地をその手にすることができました。このようにして主は信仰ある人々を最後まで残し、信仰ある者と共に働かれて主の御業を成し遂げます。愛する牧師先生を通して25年の間、日本で宣教の働きが行われて来ました。現実は常に厳しかったです。しかし、牧師先生の決してあきらめない、落胆しない不屈の信仰の歩みの中で多くの人々が救われて来ました。ひとえに主は信仰者を通して働かれます。私たちもどうか、現実に負けずに、信仰をもって歩みつつ、日本の希望となることを祈ります。

キリスト教聖書用語辞典 | ヨハン教会

言が肉となった

 ヨハネ  Comments Off
Apr 252013
 

今日はヨハネによる福音書1章です。『言が肉となった』という主題で皆さんと御言葉を分かち合いたいと思います。

ヨハネ福1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2この言は、初めに神と共にあった。1:3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

ここでいう言とは何でしょうか?これはギリシア語の言語では『ロゴス』といいます。ロゴスはここでは、世界を構成する言葉、論理として把握される。それは「言葉」「論理」「真理」という言葉に置き換えることができます。皆さんは、世界はどのようになっているのか?世界はなぜこのようなのか?様々な疑問があると思います。世の中の自然科学はロゴスを理解しようとすることである。

世の中の社会科学や人文学も人間や社会を理解しようとすること、つまりロゴスを理解しようとすることである。人間は、その始まりから、この自然がどうなっているのか、人間がどうなっているのかを捜し求めてきたのです。それらの人間の探求の答えが「ロゴス」であります。

その万物の原因であり、根源であるものが肉体を持ってこの世の現われた。これがイエス・キリストなのです。

私達は、この世の中で多くのものを求めて生きます。人間の一生は『探し求めること』といえます。

しかし、人々はその答えが見つからなくて、悩んでいます。

アーネスト・ヘミングウェイErnest Hemingway(1899年 -1961年)を知っていますか?アメリカの小説家・詩人。1954年、『老人と海』でノーベル文学賞を受賞しました。『老人と海』を読んだことがありますか?1961年、ライフルで自殺。

キリマンジャロは、アフリカ最高峰の山である。その山の山頂には、凍りついて干乾びた一匹の豹が死んでいる。何の為にその豹が山頂まで登り、そこで死んでいるのか、その理由を知る者は誰もいない。(小説『キリマンジャロの雪』より)

 

そして、その答えが、ロゴスつまりイエス様だということです。私達は何を求めていますか?愛を求めていますか、真実を求めていますか、人生の意味と目的を求めていますか。イエス・キリストに出会いましょう。イエスを知れば神が分かる。イエスを知れば人間が分かる。イエスを知れば世界が分かる。そのロゴスが神であり、神と共にある存在であり、全てはロゴスによって創造された。

 

ことばであるから、伝えたいことがある。言葉とは、メッセージです。言葉は、その人を離れて相手に向かっていくものです。聖書の神は人間に伝えるべき言葉をもっておられる。話したいことがある。私達との交わりを望んでおられるお方です。聖書はどんな『言葉』ですか?それは愛の言葉です。聖書は神様から人間へのラブレターです。聖書は神様による、人間への愛の言葉で満ちています。

「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)

コンタクト(Contact)という映画を知っていますか?1997年アメリカ、主演:ジョディ・フォスター
SETI計画(地球外生命探査計画)がテーマです。また、アメリカのNASAがボイジャー計画をしました。
現代科学は、宇宙からの声に耳を傾けて、知的生命とContactしようとしている。

神様は、遙か昔から、聖書を通して、私達1人1人の心に語りかけ(Contact)ています。神の声に耳を傾けて下さい。

1:4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

言の内に命があった。

世の中を見てみるならば、命のない言葉が多すぎる。命のない生活、命のない人生、命のない会社生活、命のない学校、命のない音楽、命のない美術、命のない文学、様々である。

現代の特徴は『命が失われた』ということではないだろうか。

心臓が止まることが命が失われることではない。私達の人生から真理が、目的が、理由が、意味が消えることが命が失われることである。多くの人間は生きている目的が、理由が、意味が分からずに自殺している。そういう人は霊的に死んでいるのである。

聖書でいう命とは、『関係』のことです。

 

光は暗闇の中で輝いている。暗闇とは何か?何がこの世の中を暗くしたのでしょうか?それは人間の心です。世の中は暗闇である。世の中は段々悲観的になっていく。それは、人間の故です。人間の心が暗闇である。

皆さんに一つある物語の話をしましょう。皆さんは『美女と野獣』という物語を知っていますか?ディズニーのアニメで有名なので、皆さん話は知っていると思います。あるところに王子様がいて、すてきなお城に住んでいました。しかし、それは呪いがかけられる前のこと。魔女によって呪いがかけられてからというもの、彼は濡れた鼻面と曲がった牙、醜い顔と体をもつ野獣となってしまったのです。王子は惨めな自分の身を隠し、自分の城に閉じこもりました。

しかし、美しい人がやってきて、全ては変わったのです。その美しい女性は野獣を愛しました。こんなにも醜く、嫌われて当然な野獣を愛したのです。その愛によって野獣は変えられ、本来の美しさを取り戻し、再び美しい王子となるのです。

しかし、ここで私達が疑問に思うのは、なぜその美しい人は野獣を愛したのでしょうか、愛せたのでしょうか。

この美女と野獣の話は、ある現実の話のことではないかと、私は後になって気づきました。野獣とは私たち人間自身に他ならないということです。聖書には私達の心には罪があると言っています。それは獣のように私達の心をむさぼり、憎しみや嫉妬、劣等感などあらゆるものが心の中で叫びをあげているからです。私達に獣のような野蛮さ、罪深さがないと、心の中に暗闇がないと、誰が言えるのでしょうか。それを発見した時に、私たちは自分自身に驚き、また時には落胆するのです。

しかし、二千年前に、そのような私たちのところに来られたある美しい人がいました。そのお方がイエス・キリストです。彼はあらゆる苦しみに悩む人を助け、病を癒し、また永遠の命を与えると約束しました。愛し合う大切さを教えました。彼は罪の汚れの一切ない人でした。彼の心には暗闇がありませんでした。彼は光でありました。なぜ彼は私達のもとに来られたのでしょうか。その方は私達の元に来て救いの手を差し伸べなかったとしても、誰が非難できたでしょうか?しかし、そのお方、イエス・キリストは私達を愛されました。そして、私達の心の暗闇である罪を取り除くために、その方ご自身が私達全ての罪の暗闇を担われました。そして、十字架の死によって全ての受けるべき罪の刑罰を代わりに受けられたのです。その方は私達人間を愛するあまり、御自分の命までも私たちに与えました。それはこの世にない愛を示すものでした。

光は暗闇の中で輝くと言っています。それは、イエス様御自身が、何よりも私達の心の中で輝きたいと願っておられるということです。この世の中のもっとも暗い部分は、真冬の暗い夜でも、深い海の底でもなく、人間の心の中です。そこを照らすために、イエス様御自身が私達の心の中に来られて、私達を照らす為に、主はこの世に来られた事に感謝しましょう。

 

ヨハネ福1:6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。1:7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。1:8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

洗礼者ヨハネについて語っています。彼には自己主張がなかった。自分の事は何一つ話さず、ただ自分の後に来られるイエス様についてのみ大胆に語ったのです。ここに、クリスチャンの模範があります。クリスチャンという存在は『窓』でありたい。窓は透明でなければならない。自分を通してその先に見える何かが見えるようにするために窓があるのです。ヨハネは、一切が閉ざされた壁の部屋の中にいる人類に対して、くり抜かれた小さな窓のようなものです。人々はヨハネという窓を通して、まことの救い主、キリストの存在を知ったのです。彼は曇りガラスではなく、曇りのない、汚れのない透明な窓でした。自分の色を持たず、一切自己主張しない。だからこそ、イエス様だけを写し出すことができたのです。クリスチャンはこうありたいと願います。

 

 

1:10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。1:11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

人間の罪とは何か?世はことばによって成ったのに、世はことばを認めなかった。

つまり創造主である神を認めないこと、これが人間の罪である。

そして創造主である神ご自身が人間になってまで愛する人間の元に来たのに、人間は人となって来られた創造主である神様に気付かずに、むしろ逆に彼を十字架にかけて殺してしまった。更にここに決定的な言い逃れできない罪がある。人は創造主を無視しただけでなく、積極的に彼を拒んで殺害したのである。

言(イエス)が願っていることは何か?それを受け入れないことではなく、受け入れることである。どこにか?心にである。

ただ主が願っていることは何か?神を神として認めることである。自分が神になるのでもなく、お金や名誉が神になるのでもなく、本来人間を創造した神を神として、父を父として認めることである。

世の中もそうである。父親にとって最も辛いことはなんであるか?息子が自分を無視し、父親として認めないことである。息子が父親に関心を示さないことである。私達は父親の気持ちを考えなければならない。ただ父親が息子に願うことは、罪の償いでも、何か高価な買い物でもお金でも労働でもなく、父親を父親として認めて欲しい。それが父なる神様の気持ちである。その父なる神様の気持ちを伝えに来たのが、神の独り子であるイエス・キリストである。

そして、イエス・キリストを受け入れることによって新しい関係が始まることを聖書は語っています。

1:12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。1:13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

ここで、聖書は初めて新しく生まれること、つまり『新生』という教えを語っているのです。これは大事なことです。なぜなら、私達は新しく生まれなければ天の御国に入ることはできないからです。

皆さんは、何人ですか?だいたい日本人か、韓国人か、中国人でしょう。なぜ日本人ですか?日本人から生まれたからです。なぜ韓国人ですか?韓国人から生まれたからです。

私達は日本人から生まれたから、日本人としての資格を持って日本に住むことができるのです。外国人は、自分の国に帰らなければならないのです。天国に住むことができるのは、神と神の子だけです。だからこそ、天国人になるためには、神から生まれなければならないのです。しかし、私達は生まれながらその資格はないのです。

またどうでしょう。犬は犬しか生むことはできないのです。猫は犬を生むことはできない。猫は猫しか生むことができないのです。同じように、罪人が生むことができるのは、罪人だけです。

だからこそ、私達は、罪のない神の子として、天国に入るためには、神から生まれなければならないのです。

ヨハン教会の神奈川支部

Apr 202013
 

黙示録の5章から、イエス様によって7つの封印が開かれました。7つ目の封印が開かれたとき、今度は7つの天使によるラッパの音が鳴るとともに、様々な天変地異が起こる様が黙示録に描かれています。今日の本文は第五の天使によるラッパの音とともに、いなごの軍隊による災いが人々に襲いかかるのを見ることができます。

 

一つ目のポイントは、これらの全ての災いが主の主権によって行われているものである事を、心に留めなければなりません。

9:1第5の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちてくるのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ

9:2それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち昇り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。

9:3 そして、煙の中からいなごの群れが地上へ出てきた。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。

9:4 いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えても良い、と言い渡された。

9:5 殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺した時の苦痛のようであった。

9:6この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬ事が出来ず、切に死を望んでも、士の方が逃げて行く。

本文の1節~6節を見てみると、「与えられ」、「言い渡された」、「許された」という言葉が出てきます。黙示録を見てみると、この世の終末においては、サタンが大きな力を人々に対して振るうのを見ることができます。この世の中にサタンの影響力がないならば、どんなにか幸いな世の中だったでしょうか。残念なことですが、人類の歴史を通して常に、サタンの働きはあります。しかし、これらのサタンの働きも、主なる神様の許しなしには決して起こりえないものであるということです。だからこそ、確かに人間の頭では理解できないかも知れませんが、主の主権と計画により、神様はサタンを通しての災いを地に及ぼすことを許しておられると言う事です。そして、言える事は何事も主の許しなしには起こり得ないということです。

すべての出来事は、主の主権のもとにあります。あらゆる事において主は計画をもって私達に喜びを与え、悲しみや苦しみを与えられるのです。信仰によってあらゆる出来事を受け止めて、主に感謝を捧げる者になりましょう。このような主の主権を認め、主に信頼する時に、私達は世の中での不必要な思い煩い、悩みから開放されるのです。私達は様々な苦難を信仰をもって乗り越えるヨブの姿を旧約聖書から見る事ができます。

ヨブ1:12 主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにして見るがよい。ただし、彼には、手を出すな。」

ヨブ2:6 主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」

このようにして、ヨブ記を見ると、サタンのあらゆるヨブに対する激しい攻撃も、主の許しの中で行われていると言う事です。つまり、この世の中で、神様の目を盗んでサタンが働くと言う事はあり得ません。神様は全知全能なお方で、全てをご存じだからです。だからこそ、私達は今日の本文を通して何を学ぶべきでしょうか?

黙示録を見ると、クリスチャンにとっては数多くの試練と苦難の連続です。しかし、あらゆる苦しみや困難も神の許しなしにはないことを考えるならば、『乗り越えられない試練はありません。乗り越えられない苦しみはありません。』という事ができます。なぜなら、

Ⅰコリント10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。

と聖書の文にあるからです。わたしたちが生活している中で、沢山の試練がやってくるわけです。今はまだ試練に遭ったことがないという兄弟姉妹がいるかもしれません。しかし、私達が中途半端ではなく、真実な神の御心にかなう事を実行するクリスチャンとして生きようとするならば、必ず何らかの迫害、反対は避けられないでしょう。だからこそ、私達はこのような状況を信仰をもって乗り越えることが必要です。試練と困難の中で、主に対する不平不満をいうのはやめましょう。主は必ず試練を乗り越える道を示して下さるからです。だからこそ、このような試練の中で私達の真の信仰が試されます。

ヨブ2:10 ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福を頂いたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。

私達は主の主権を認めるならば、自由になることができます。それは試練も主の主権の中で感謝をもって向き合うことです。主は私達をまことの神の子に相応しい者にするために、試練を与えられるのです。

Ⅰペテロ1章6節~7節をお読みします。

2つ目のポイントは、試練の中でも主の道を貫こうをする人は真のクリスチャンであり、それは本文にあるように「額に神の刻印を押されている人」であります。お互いの額を見てみましょう。刻印が押されているでしょうか?わからないですね。これはおそらく見えるものではないと思います。しかし、言えることは、試練の中を信仰をもって乗り越える愛する兄弟姉妹は神の刻印を押された者であります。そのような人々は、神様から確かな恵みを頂きます。

このさそりの害は恐ろしい力があり、人を五ヶ月間死なせずして苦しめる力がありますが、神の刻印を押された人々にはこの災いは及ばないのです。

私達はこの御言葉を読みながら、旧約聖書出エジプトでのイスラエルの民の様子を思い出す事ができます。

出エジプト8:18 しかし、その日、わたしはわたしの民の住むゴシェン地方を区別し、そこにあぶを入り込ませない。あなたは、こうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる。

出エジプト9:6 翌日、主はこの事を行われたので、エジプト人の家畜はすべて死んだが、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。

出エジプト10:23 人々は、三日間、互いに見る事も、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいるところにはどこでも光があった。

とあるように、神様はご自分の民とそうでないものを区別されるのです。そして、私達が知らない間に、主は特別な恵みを我々に与えておられるのです。

私達は、神様が知らない間に我々を罪から守り、聖なる者としてまもっていて下さる事に気づいているでしょうか?もうすぐクリスマスを迎えようとしています。今は私達は2週間のクリスマスコンサートの為に毎日労苦していますが、考えてほしいのは、もし、今私達が救われていなかったとしたら、クリスマスに向けて何をしていただろうか?ということです。日本にとってクリスマスは、年末のデパートが売上を伸ばす商売繁盛の一つの手段となっているだけかもしれません。または、恋人同士がロマンチックな時間を過ごすただのイベントとなっているかもしれないです。最近巷では沢山のアーティストによるクリスマスソングを聞くことができますが、そこにはイエス様の愛は一言も語られていません。とにかく言える事は、そこにはイエス・キリストも、主が与えて下さる救いも喜びも平安も全くないということです。自分もイエス様を知らない大学3年までは、本当にクリスマスの過ごし方は世的だったと思います。友達とお酒を飲みに行くか、恋人同士で楽しく過ごす人々に嫉妬するか、そんな感じだったと思います。

私達は、主の民とされて、この世の中の多くの空しさから、悲しみから、快楽的な生活から守られているのです。皆さんは今の生活が当たり前だと思っているかもしれません。しかし、決してそうではありません。出エジプトにおいて、エジプト人への災いがイスラエルンに及ばないように、また黙示録ではさそりの毒の力が神の刻印を押されたクリスチャンに及ばないように、私達は神の子として生活しながら、あらゆるこの世の破壊的な快楽や虚しさから守られて生きているということです。私達が神の刻印を押されていないならば、どうして、このような2週間の間に多くの人々をコンサートに誘おうと日夜伝道しているでしょうか?このような働きをしていること自体が、我々の心が守られていることであれ、大きな祝福です。自分の幸せ、自分の快楽、自分の恋愛ではなく、失われた魂の救いと幸福のために走っているからです。今、コンサート2週目に入りました。もしかしたら疲れがたまりつつあるかもしれません。しかし、主がこのような素晴らしい働きに私達を用いて下さっていることを感謝しましょう。私達でなければできないことです。自分にとらわれずに神様の願う福音伝道をまっとうしようとするからです。主が私達に与えて下さった守りと恵みに感謝します。

3つ目に、7節からは、五か月の間人々に害を与えるいなごの姿が詳しく描写されています。

 

9:7 さて、いなごの姿は、出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものをつけ、顔は人間の顔のようであった。

9:8 また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。

9:9 また、胸には鉄の胸当てのようなものをつけ、その羽の音は、多くの馬にひかれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。

9:10 さらに、さそりのように、尾と針があって、この尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。

このいなごは、底なしの淵から来た悪しき存在を王として、まるで手下の役割を果たしています。その底なしの淵からの王はアバドン、アポリオンと言います。この意味は「破壊者」という意味です。つまり、終末の時代、神様はこのアバドンであり、アポリオンの手下の働き、つまりさそりのような毒をもついなごのわざわいを定められました。

9:11 いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシア語の名はアポリュオンという。

皆さん、この本文を読みながら、いなごの姿をイメージできるでしょうか?いなごであり、また馬のようであり、顔は人間のようであり、獅子のようでもあり、さそりのようでもある。いなごと馬と人間と獅子とさそりを足した存在をイメージできますか?これはあらゆる方法、手段で人々に害を与える姿をこのように描写していると言えます。いなごのように数多く、馬のように素早く、人間のように賢く、獅子のように獰猛でさそりのような毒をもって人間を苦しめるのです。聖書を読むならば、終末に向かう中で、世の中ではあらゆる形で、方法を変えて、手段を変えて人々の心は破壊されていっているのが分かります。学級崩壊や家庭崩壊、精神の病は、人間関係の破壊的な状況からやって来ます。このいなごの軍隊が正確には何を意味するのかは定かではありません。しかし、この世の中におけるサタンの勢力による恐ろしい破壊は、外面もさることながら、人間の内面にあるのです。

箴言4:23 何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。

とあるように、最も効果的な破壊は、人々の心にあります。アポリュオンの存在は姿を変えて、人々を腐敗させ、破壊させるために迫っていることを知らなければなりません。お酒や麻薬、あらゆる快楽への誘惑は人々の心から聖さを奪い、神様への怖れを奪い去ります。これらのものが人々を虚しくさせ、苦しめるにも関らず、人々は逃れることができません。神様を知らない人々の心は今も悲鳴をあげています。福音を通して主イエス・キリストを信じ、神の刻印を押された者になることがアポリュオンの災いをさける唯一の道です。私達は今このようなアポリュオンの手下であるいなごの毒から守られていることに感謝しながら、今だに苦しみ悶えている人々の救いの為に涙を流さなければなりません。

クリスチャンは常に二つの心を持たなければなりません。そして2種類の涙を流さなければなりません。一つは救われて、この世のあらゆる苦しみから自由になった喜びと感激で涙を流すことです。もう一つは、今だに救われていない人々を見ながら、彼らの為に執り成しの涙の祈りを捧げることです。真のクリスチャンには常に自分自身の救いの喜びと、同時に救われていない人々に対する憐れみと悲しみの心、この二つの心を持つことが必要です。自らの救いの喜びで満たされつつ、感謝をしながらも、今だに救われていない、虚しいクリスマスを迎えようとしている多くの日本の人々がまことのクリスマスの意味を知り、喜びと救いを知り、私が変えられたように、この魂も変えられる事を祈りつつ、今日も遣わされる一日となりましょう。

御言葉をまとめます。

①     すべての出来事は、主の主権のもとにあります。災いも苦しみも主の許しがなければ私達に降りかかる事はありません。あらゆる事において主は計画をもって私達に喜びを与え、悲しみや苦しみを与えられるのです。信仰によってあらゆる出来事を受け止めて、主に感謝を捧げる者になりましょう。

②     様々な試練を信仰によって乗り越えるクリスチャンこそ神の刻印を押された神の民です。私達はいなごの持つさそりの毒から守られているように、世の中のあらゆる快楽や虚しさという毒から守られていることに感謝しましょう。

③     この世の終末における破壊者はあらゆる姿に自らを変えて、人々に害を与えます。私達がそのような災いから守られていることに感謝しながらも、今だに主を知らない人々の苦しみと悲しみに涙しながら、福音を伝える者になりましょう。

宮城県おすすめスポット

Apr 142013
 

モテの手紙は、使徒パウロが最後に書いた手紙であると言われており、遺言書簡と言われています。監獄で死を予感したパウロは、エフェソにいるテモテへ愛を込めて手紙を送りました。まだ、若いながらも教会を任されたテモテに対して、どのように牧会するべきかを指南しているパウロによる手紙を見ていきます。

 

まず、今日の本文1,2節をお読みしましょう。

1:1 キリスト・イエスによって与えられる命の約束をのべつたえる為に、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、1:2愛する子テモテへ。父である神と私達の主イエス・キリストからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。

 

これはパウロのテモテにあてた手紙の挨拶文です。

この手紙は誰に向けられていたのか、それはテモテです。パウロは彼のことを『愛する子』と言っています。これがパウロの心です。勿論、パウロとテモテは親子ではありません。しかし、そこには霊的な親子関係があるのです。これは世の中でいう師匠と弟子の関係ではなく、霊的な親と子供の関係であります。ここにキリスト教の素晴らしさがあります。私達の教会にも筍長と筍員の関係があります。それこそまさに霊的な親子関係です。今、この場にいる兄弟姉妹はある時は筍長であり、今は、もしくは将来は筍長かもしれません。肉親の親子関係も大事なものですが、クリスチャンにとって、霊的な親子関係も非常に大切なものです。なぜなら、これは唯一の真の神に対する信仰によって結ばれた関係だからです。そして、どちらの親子関係においても言えることは、それが『愛の関係』に他ならないということです。テモテの手紙は何でしょうか?これはパウロからテモテにあてたラブレターです。霊的な親から子への愛の手紙です。

その愛の告白はどのような現れていますか?

3,4節をお読みしましょう。

2テモテ 1:3 わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。1:4 わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。

 

二つの質問をしたいと思います。あなたには、このように昼も夜も絶えず思い起こすことができる愛する霊的な弟子がいるか?もう一つは、あなた自身が、あなたの霊的な親である筍長、先生からこのように絶えず思い起こされ、祈られていること、愛されている事に気付いているか、ということです。私たちはこの二つの要素が常にあるのです。

私達が成熟したクリスチャンになるということは、こういうことです。私達自身が常に祈りの中で思い起こす兄弟、姉妹がいるということ。魂に対する重荷があるということ。そして、もう一つは私自身が誰かから常に祈られているということ、関心を持たれ、愛されているということである。これがキリスト教の素晴らしさです。これが教会の素晴らしさです。このような霊的な親子関係、愛の関係が緊密であればあるほど、その教会は愛が満ち溢れる教会であり、喜びと祈りが満ち溢れる教会であり、弟子が生まれる教会になると信じます。

そして、パウロは告白します。『あなたに会って、喜びで満たされたい』と。成熟したクリスチャンにとっての喜びとは何でしょうか?それは出世ですか?事業の成功と名誉でしょうか。愛する異性との結婚でしょうか。そうではないのです。パウロにとっての喜びは、愛するテモテの成長でした。パウロは祈りの中でテモテのことを思い起こし、感謝していました。また、彼にとっての喜びは、霊的な子供であるテモテに会って、愛の交わりをすることでした。

私も、一歳になる子供がいるから理解できます。保育園から帰ってきた子供に会うことは、毎日の楽しみであり、喜びです。同じようにして、霊的な親であるクリスチャンが、自分が愛し、祈っている魂に会うことは喜びなのです。私たちはここにイエス・キリストの弟子の道を見ることができます。

私たちはどうでしょうか?このような祈りの中で毎日思い起こし、感謝があふれる兄弟姉妹がいるでしょうか。そういった兄弟姉妹が沢山早稲田キリスト教会から起こされて欲しいと願います。

 

先週、多くのあたらしい人教会に来ています。素晴らしいことです。しかし、私達は教会に始めて訪れるあたらしい人々も大切に思いながらも、もっと大切なのは、このような人々です。日々祈りを積んでいる筍員、信仰の友、愛する兄弟姉妹を大切に思い、彼らのゆえに喜びを見出さなければ、教会はただの宣教団体になってしまうでしょう。

教会は宣教団体ではないのです。そこには、パウロとテモテのような霊的な親子関係、信仰と祈りと愛の関係があることです。私達は、愛する兄弟姉妹ともっとこのような交わりが、祈りが深くなることを願います。その時に教会が真の意味で成長し、成熟したキリストの体となっていくことを信じます。

 

3つ目に、パウロはテモテに対してどのようなアドバイスをのべているでしょうか。

2テモテ 1:5 そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。

ここで、パウロはテモテの信仰がどのようなものであるか、語っています。『信仰とは宿るもの』だということです。テモテの信仰は、自分からのものではなく、3代目の信仰でした。祖母から、母、そしてテモテへと受け継がれてきたものでした。信仰の継承がありました。素晴らしいことです。日本において難しいのは、まさにこの信仰が代々受け継がれていくことです。日本の教会を見て下さい。そこにどれだけの若者がいるのか?高校生が、大学生が何人いるのか。数えるほどです。学校に入れば部活で主日はつぶれてしまい、思春期を迎えれば親の言うことを聞かなくなる。日本の教会はお年を召された年配の方々、そしてまだ親の言うことに従順する子供達がほとんどです。彼らも物心つけば、教会から離れて世の中に出て行きます。

私達の教会は多くの若者がいることが希望です。なぜなら次の世代につなぐ事ができるからです。金圭東牧師先生のビジョンがキャンパスで福音を述べ伝えているのも、若者に日本の希望があるからです。今回も多くの将来ある若者がサマーライブを通して救われ、用いられる弟子になるよう祈りましょう。

 

テモテは、祖母から母へと信仰を受け継いで来た人物でした。純粋な信仰者です。しかし、テモテの性格を考えてみたときに、確かに祖母、母親と女性から信仰を受け継いで来た分、彼はおくびょうであり、大胆さがなかったと言われています。また、偉大な使徒であるパウロの後継者としてエフェソ教会を任された時、彼はまだ若かったのです。大先輩である偉大なパウロの後をどのように受け継げば良いのか、恐れがあったのは当然でしょう。そこで、パウロはテモテにこう励まします。

6節~7節をお読みしましょう。

2テモテ 1:6 そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。1:7 神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。

パウロは言います。あなたには、もう既に力と愛と思慮分別の霊が与えられていると言います。それは何ですか?イエス・キリストの霊、聖霊様です。パウロはテモテに対して期待しています。彼がパウロと同じように主の働きを成し遂げることを期待しています。だから、手を置いて按手しました。

パウロはテモテに対して期待しています。なぜなら、力と愛と思慮分別の霊がパウロと同じようにテモテの上にもあるからです。

私達はどうでしょうか?主は私達一人一人にも、力と愛と思慮分別の霊を下さっています。信じますか?そのような素晴らしい神の賜物が与えられているにもかかわらず、我々は宝の持ち腐れをしています。

私達はどうでしょうか?パウロがテモテに対して期待しているように、あなたが期待している兄弟姉妹の誰かがいますか?または、自分が誰かからテモテのように期待されていると気づいていますか?

何よりも、主なる神様が私たちに期待しています。だから、聖霊様を私達に下さいました。

主は、私達がイエス様と同じ働きをするために、聖霊様を下さいました。聖霊様の働きを通して、主の御国を広げることを主は期待しておられます。しかし、私達は同時に、臆病の霊とも闘わなければなりません。

臆病ならば、福音を述べ伝えることができません。臆病ならば、相手の罪を率直に指摘することができません。臆病ならば、傷つくことを恐れて、最後まで愛する事ができません。臆病の霊は不信仰の霊です。無関心の霊です。クリスチャンと、教会の成長を妨げる霊です。私達は力と愛と思慮分別をもって、主の働きを行う前に、臆病になってしまうことが多いように思います。

日本は特に人の目を気にする風潮があります。出る杭を打ってしまう流れがあります。個人主義の世の中で、人の心の中心に触れる事、触れられる事を拒む風潮があります。

しかし、私達は聖霊に満たされて、力強く、大胆にしかし、何よりも愛と分別力をもって、一人一人の魂を愛し、育てなければなりません。これは難しいことです。日本で今まで福音がここまで広がらない一つの原因は、福音に対して力強く、愛をもって魂とぶつかるよりも、恐れと不安に捕らわれて臆病になってしまったことが多いからとも言えます。私達はこの戦いに負けてはなりません。

Ⅰヨハネ4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。

私達が、任された一人一人の魂に対して、力と愛と思慮分別を持って、接することができるよう祈りましょう。

最後に、パウロが何よりもテモテに望んでいたことがあります。

8節:だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んで下さい。

パウロがテモテに望んでいたのは、このことでした。即ち、福音のためにパウロと共に苦しみを耐え忍ぶことです。霊的な成長とは何でしょうか?それは、私達とビジョンを共にする兄弟姉妹、先生と『苦しみを共に耐え忍べるようになった時』である。私達の周りに主の為に情熱的に走っている人がいますか?金圭東牧師先生がそうでしょう。牧師先生が来られて、33の教会が建てられ、日本において大きな主の御業が行われているその原因は何ですか?それは、本文8節にあるように、牧師先生と同じビジョンを持ち、同じ志を持ち、先生が担うストレスやプレッシャー、重荷を共に担い、共に苦しみを耐え忍ぶ多くの先生方、執事、筍長たちがいたからに他ならないんです。

私達は今、どのような存在ですか?パウロがテモテに語ったようなメッセージは、私達にも向けられているものです。今日、木曜礼拝に来ている兄弟姉妹は、まさにテモテのように、共に苦しみを耐え忍べる人達になってほしいんです。日本で福音を述べ伝える事に大きな苦しみや試練があることは言うまでもないことです。私達はその事に対して傍観者になりますか?

私達がせいぜい自分の仕事、自分の筍の働き、自分の家族の幸せの為に生きようとするならば、私達は福音の為の苦しみは担う必要がないんです。自分のことだけ一生懸命やれば良いでしょう。しかし、パウロはそのようには言いません。共に苦しみを担ってください。

日本人部の兄弟姉妹を見てみるならば、たとえ筍長になっても、自分の為の働きだけに力を入れている、自己満足的な筍長がいることを残念に思うのです。自分の仕事、自分の筍、誰かの苦しみを共に担わない人にはならないで下さい。福音の傍観者にならないで下さい。一緒に苦しみを耐え忍ぶ我々になりましょう。これは私たちに対するメッセージです。どうか、主の働きの同労者になりましょう。

そして、何より私達を通して、同じ苦しみを耐え忍ぶ事ができる主の弟子が生まれる事を祈りましょう。沢山の人々が毎週伝道されて来ます。今週もそうでしょう。ただ救われることで満足してはならないんです。私達が日本の福音化を本当に願うならば、私達の基準はもっと高いものです。それは、ただ救われて終わるのではなく、共に苦しみを耐え忍ぶことができる弟子が起こされることです。

http://www.yohansaitama.org/