出エジプトしたイスラエルの民約300万人が約束の地であるカナンへと向かっていました。今日の本文で彼らが宿営していたカデシュ・バルネアという土地は、カナンの地からさほど遠くはなく、その土地を偵察できるまで近くに来ていました。しかし、残念ながらイスラエルの民は約束の地に入る事ができずに、この荒野を約40年間さまよい歩くことになってしまいます。なぜ、そのような事になってしまったのか。その理由は民数記の13章、14章を読むことによって分かります。エジプトを脱出したイスラエルの民は神から選ばれた約束の民、救われた民でした。彼らは唯一の主なる神を信じていました。しかし、それでも彼らは主が約束された乳と蜜の流れる土地、豊かなカナンの土地に入ることができなかったのです。彼らはエジプトの奴隷状態からは解放されたけれども、主が与えようとしておられる本当に豊かな報いと実りを得ることはできませんでした。彼らは今の時代、この世と言う荒野を生きるクリスチャンである私達をよく表しています。
10:10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
とあります。私たちは救われたからには、豊かな実りと勝利ある人生を歩むべきです。しかし、なぜそれができないのか。私達は今日の本文を見ながら考えて行きます。
13:25四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た。13:26パランの荒れ野のカデシュにいるモーセ、アロンおよびイスラエルの人々の共同体全体のもとに来ると、彼らと共同体全体に報告をし、その土地の果物を見せた。13:27彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。13:28しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。
彼らは約束の地を見てきました。その12人はイスラエル12部族の各代表者であります。リーダーとして相応しい信仰・人格を備えているべき人でした。しかし、彼らの12人の報告の中で10人の報告は否定的のものだったのです。また、続けて彼らは言います。
13:33そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」
根本的な彼らの信仰の姿勢があります。自分達がいなごのように見えたと言っています。彼らのアイデンティティーは『いなごのアイデンティティー』でした。自分達が小さな存在である。みじめな存在である。自分達は無力で、何もできない弱い存在である。これが彼らの価値観だったのです。私たちはどのような考えをもって生きているか、考えてみましょう。勿論、私たちは罪深い人間であります。主の前に喜ばれることが何一つできない、そのような存在です。しかし、私たちはイエス・キリストの十字架の血潮により、清められ、赦された存在であります。クリスチャンになると、自らの罪深さで悩むこと、葛藤が勿論あります。だからこそ、私達は主の十字架のみを誇りとして歩まなければなりません。
6:14しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
私達は十字架によって贖われ、神の子供となりました。尊い神の子であります。その事を信じていますか?彼らはそのような意識がありませんでした。彼らは奴隷根性から抜け出すことができなかったのです。400年の間、彼らは奴隷でした。奴隷とは何ですか?常に言われて行動する、言われるまで行動しない。主体性、積極性のなさ。周囲の状況を見ながら、人間に縛られながら生きること。またエジプト人を見ながら、彼らの技術、文明に圧倒されていたように、世の中を見ながら、世の文化、文明や技術に圧倒されて委縮してしまうこと。これが奴隷根性です。彼らはエジプトは脱出しながら、奴隷の状態からは解放されました。しかし、奴隷根性が抜けきらなかったのです。
私達を考えてみましょう。私達はどのように生きるべきであるのか。先週まで、宮城県における災害のボランティアに行ってきました。各ヨハン教会から日本部、韓国部、中国部が集まり、塩釜と石巻を中心にして活動しました。がれきや泥の撤去と非難所での炊き出しがその主な仕事です。個人個人ではなかなかこのような働きをしても力が足りないことが多いです。しかし、神の共同体として、教会として、私達は力を合わせて大きな働きをすることができます。今、まさに救われたイスラエルの民は、教会という神の共同体そのものです。私達が起きて、光を放たなければなりません。このような国家的な危機の状況に際して、私たち日本人部はどれほど主体性があるでしょうか?韓国や中国に帰る留学生達が次々といる中で、自ら最も被害の大きい場所である被災地に行って活動する留学生達がいます。
クリスチャン精神は何でしょうか?困難から逃げずに、一番難しい場所に自ら飛び込んでいいくのがクリスチャン精神であります。私達は確かに弱い罪人です。しかし、主の十字架により、聖霊様の力により日々強められて歩む者です。また、私たちは神の共同体である教会の体として一つになる時に、大きな力を発揮することができます。
私達はある意味、日本における先駆者として、開拓者として用いられています。彼らリーダー達は、他のイスラエルの人々よりももっと先を見る事ができる偵察隊でした。彼らはその目で約束の地を見たのです。彼らはその乳と蜜の流れる土地を見ながら、期待感に溢れるべきでした。喜びに溢れるはずなのに、彼らは約束の地を見て絶望したのです。
私達はどうでしょうか?クリスチャンには約束の地があります。それは天国です。神の国です。私達は主の素晴らしい約束の地に向かって歩んでいます。私達は実際に物理的に目で天国を見る事ができないです。しかし、私達は聖書を通して、信仰を通して約束の地である神の国を見る事ができます。そこに期待感や喜びがないのならば、どうして世の中の人々はクリスチャンに魅力を感じるでしょうか?私達は主の素晴らしい天国の約束を期待して歩む者になりましょう。救いは信じる全ての者に平等に与えられます。しかし、天国の報いは、それを慕い求め、探し、門を叩く者に与えられます。積極性、主体性が必要なんです。愛する中高等部(2時礼拝)の兄弟姉妹はどうでしょうか?言われてやる人々でしょうか?受け身で、消極的に歩んでいるならば、私達は奴隷根性から抜け切れていないのです。
神の子としての尊いアイデンティティーを持って歩みましょう。
2番目に、彼らは何にもまして不信仰でした。
13:32イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。13:33そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」
32節、33節を見てみれば、『見た、見えた』という言葉が4回も出てきます。彼らは約束の地を見て来たのです。しかし、どのように見るのか、信仰の視点が大切なのです。彼らは40日間、カナンの地を見てきましたが、そこで見た者はそこに入ろうとする人々を返り打ちにし、滅ぼすであろう強い民族、巨人のようなアナク人、城壁や様々な精錬された武器の数々でした。確かに、当時の異邦人であるカナン民族は武力的に力強い民族でした。かたやイスラエルの民は戦車があるわけではない、武器があるわけではない。又定住する土地も要塞も城も持たない、遊牧民族です。彼らの力の差は歴然としているように見えます。彼らは約束の地を見ながら、40日の間、目撃した現実に打ちひしがれました。
ここに、私達が気をつけなければならないものがあります。それは『現実』というものが私達をどれほど絶望させ、落胆させる力を持っているかということです。確かに現実から逃げるのは良くないです。私達は現実を直視するべきです。しかし、現実と言うのは、見るものを圧倒する力をもっています。見た眼を通して、聞いた耳を通して、私達の考えを変え、心を動揺させ、恐れと不安に捕らわれる力を持っています。そして恐れに捕らわれた心は、現実を客観的に見る事ができなくなります。そこから信仰は全て失われます。
最近の震災のニュースを見てみれば、分かります。物理的な被害も大きいのは勿論ですが、東京や北関東においては、心理的な被害がよく見られるんです。風評被害と言うのがあります。厳しい現実を見ながら、人々は客観性を失い、恐れや不安に捕らわれて『悪い情報』を流し始めます。本文にもあります。『偵察してきた土地に悪い情報を流した』とあります。原発の問題がそうです。東京の水?大人は普通に飲んで大丈夫です。放射能汚染がありますか?飛行機に乗って韓国や中国に帰る方がもっと被ばくします。東京ではたばこの喫煙所の近くにいた方がもっと健康被害は大きいです。しかし、人々は悪い情報に翻弄されて、パニックに陥る傾向があります。今の時代も、この民数記の時代も同じです。
私達は現実に圧倒されてはなりません。2種類のクリスチャンがいます。現実の上に信仰を置く人と、信仰の上に現実を置く人です。信仰の上に現実を置く人は、どんなに礼拝で恵まれても、どんなに聖書勉強で恵まれて教会でハレルヤアーメンと言っていても、一歩教会の外に出て、現実の世界を見ると絶望し、落胆します。つまり不信仰です。信仰生活は教会にいる時だけがかろうじてできます。
しかし、現実の上に信仰を置く人はそうではありません。周りの状況や環境は苦しい、確かに問題だらけ、絶望、落胆したくなります。しかし、現実の上に信仰があるので、主の御言葉の約束があるので、落胆しません。否定的な現実を乗り越えて、聖書の御言葉を通して希望を見出し、喜びます。現実を見ながらも、信仰をもって感謝を捧げます。クリスチャンはどのような存在でしょうか?
ガラテヤ 3:11律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
そうです。正しい者は信仰によって行きます。信仰で生きる私達になりましょう。現実を見ながら、現実に圧倒されて、恐れおののく者ではなく、信仰で前を向いて進む者になりましょう。
3つ目に、私達はその信仰の素晴らしい態度をヨシュアとカレブを通して見る事ができます。
13:30カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」
ヨシュアとカレブの二人は、信仰をもって進み、その約束の地を占領する事を願い出ました。それが神の御心だからです。それが神の約束だからです。今、私達が生きる日本はどうでしょうか?確かに難しい状況にあります。震災の被害で人々は苦しんでいます。しかし、あらゆる状況に際して、日本の民が救われる事は主の御心であると信じます。主はアブラハムに約束されました。
創世記 18:26主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
創世記 18:32アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
正しい者が10人いれば、主はソドムの街を滅ぼさないと言われました。正しい者はどんな者でしょうか?優れた頭脳の持ち主でしょうか?リーダーシップのある人でしょうか?違います。正しい者は信仰ある者です。主は信仰者を通して、その町を、民族を救いへと導かれると信じます。日本は今、大変厳しい状況にあります。しかし、私たちクリスチャンが信仰に固く立ち、起きて光を放つならば、私達を通して日本が変わることを信じましょう。確かに12人の偵察隊の内、10人の不信仰により、イスラエルの民は40年の放浪生活を余儀なくされました。しかし、逆に言えば、12人のうちの2人のヨシュアとカレブの信仰を通して、イスラエルの民は完全な滅亡からは免れました。そして、彼ら二人とその子供の世代は約束の地に入り、見事に約束の地をその手にすることができました。このようにして主は信仰ある人々を最後まで残し、信仰ある者と共に働かれて主の御業を成し遂げます。愛する牧師先生を通して25年の間、日本で宣教の働きが行われて来ました。現実は常に厳しかったです。しかし、牧師先生の決してあきらめない、落胆しない不屈の信仰の歩みの中で多くの人々が救われて来ました。ひとえに主は信仰者を通して働かれます。私たちもどうか、現実に負けずに、信仰をもって歩みつつ、日本の希望となることを祈ります。